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映画「バグズライフ」

バグズ・ライフ [DVD]

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ホントにすごいモノに出会ったときは言葉が出ない。なぜなら「すごい」って気持ちは何かを超越したっていう意味合いが強くて、自分の中に対応する経験や似たようなモノに置き換えるボキャブラリーが存在しない場合がほとんどだからです。


このお話しは有名な「アリとキリギリス」をベースに描いたピクサーのフルCG映画。で大抵の人はその文面の中で「フルCG」って言葉に一番反応するんじゃないかと思います。確かに10年前までCGは映画の演出上、最も重要とされる部分にほんの数分間、用いられるだけでなんかすごい手間とお金と時間をかけた珍味のように丁重にもてなされたものだった。でも99年という現在、CGっていうのは豪華で変わった演出ではなく、あくまで便利な筆や特殊メイクやカメラのひとつとしてふつーの存在になりつつあります。高速で安価なパソコンができてきたことで逆に今までの映画では考えられなかった個人作業と小さな資源でゴミも出さずに大きなヴィジョンを完成させることができるようになったしね。モニターの向こうの空間ではそれこそ重力や天気、カメラの取り回しなんかに振り回されない完全自由空間が拡がっているわけだから、あとはもうセンスでしょう!って時代がついそこまで来ている訳ね。


で、トイストーリーを機についに100%モニター上でできてしまった映画っていう時代が来たわけ。これはその後の進化を望むべく第2段って言うのもまぁ、お話として間違ってないよね。でもこの際、その辺は一切切り捨ててしまえ!と僕は言いたい。それはここで使われている技術が半端なモノだから目をつぶれっていう意味じゃなく、初めて生まれた「技術を見なくて済むCG映画」としてあまりに完成されているからです。


偉い誰かの言葉で「究極に進化した技術は魔法と区別が付かない」っていうのがあります。あまりいい例えとは言えないけど、自動ドアの仕組みとかって普段あんまり考えないじゃない? それはアレが便利な道具として直感的な部分で不便や不自然を感じないほど洗練された姿だからだと僕は思うのです。例えば、ビデオの留守録に失敗すると「操作がむずかしすぎるんだよ!」とか「予約項目を画面で確認できなかったせい」とか「テープの残り時間ぐらい表示してよ」とか様々な不満が生まれて、とてもじゃないけど「魔法」なんかじゃいられないわけね。この「バクズライフ」は技術の上ではかなり魔法レベルに到達しています。なんかもうそういう世界がそこにあるとしか思えないと言う点ではある意味「実写」かもね。で、いやらしくないんです。技術のひけらかし展覧会とかになってない、物語のための技術っていう在り方が徹底されていて美しい。光の過剰な扱い方とか、異常なアングルのカメラワークとかに走らないで、骨をしっかりつかんで、そこにだけ力をそそぎ込めるのは、まさにオトナのなせる技と言う気がします。


物語としてもあらかじめ子供とオトナが混在して見ることを想定してあって、「セサミストリート」的なおもしろさと「ファミリータイズ」的なおもしろさがうまい具合にミックスされた脚本は、ほんと感服モノ。どちらにもこびないでどちらも満足させることなんて机上の空論だと思ってたんだけどな。できるんですね。


作品としての無駄のなさや完成度はもちろんとして、エンドテロップにおまけ映像が付いてくるんですわ。それは先に言ってしまうと「CGキャラクターたちのNGカット集」なんだけど、この洒落で、この制作者たちがどういう意識でこの作品を作り上げたかよくわかった。任天堂の技術者が以前こんな事を言っていたんです。「よく、どんな仕事をしているのかって聞かれて、多分ゲームソフトを作っているって答えるのがわかりやすいとは思うんだけど、我々はこう言うことにしています。向こう側を見るブラウザをつくってるって」


僕はこれを聞いたとき本気で涙がこぼれた。「画面の向こうに世界をつくっている」のではなく、世界はすでにそこにあって、それをどう便利に快適に見させるかっていう仕組みを作っているという意識の高さ。バグズライフのエンドテロップもまさにそういう文脈から生まれた洒落に他ならない。これって「まるで生きているみたいに人工のモデリングを演技させて映画風につないだ」んじゃなくて「彼らはあらかじめ生きていて、彼らの主役に据えた映画を撮った」んだって言う意識の現れですよね、間違いなく。そんな映画がすごくないわけがないじゃない? 見に行けって、今すぐに。